https://petamun.blog.ss-blog.jp/2019-09-12-1
https://petamun.blog.ss-blog.jp/2019-09-02
↑ の続きです。
瀬戸内海を中心に考えた古代西日本の支配圏の移り変わりから、邪馬台国は何処か、倭(ヤマト)王権へどう繋がっていったのかを推測してみた。
春秋(BC770 - BC403) 時代までには、貿易もあり船舶での行き来もあったのではないか、戦国(BC403 - BC221)~三国(BC220-BC280)時代に強襲され、邪馬台国は壊滅し、その頃に倭(ヤマト)王権へと移り変わって行くのではないかと・・
それがいわゆる逸話の神武東征ではないかと疑ってみてる。
それ以前、瀬戸内海を取り巻く環境は、それぞれの小国家があった事は史跡などで分かりつつありまして、勢力争いや狩り/漁場争いなどで小競り合いを続けたりしつつも、そのうち貿易的な繋がりも行われるようになっていったものと思いますけど
たぶん最終氷期の真只中で、日本に渡ってきた猿人を祖先に持つグループと、中国や朝鮮半島から、様々な理由で、はみ出してきた神々と呼ばれるグループが存在してますよね~。
前回も少しかじってますが、その頃、下関に運河が造られたのではないかと思うのです。天津の運河の話ししてますけどね。その後なので大それた知恵もあった分けだわ。
最初は船が擦れ違うくらいの小さなものだったのだと思うけど、数百年で海流に侵食され続け今のサイズになったのだろうかと・・
神武東征が日向の国からと云われているので、その頃はまだ関門海峡は無かったんだろうと、単に思っただけなのですが・・
大雑把に分けると、九州勢は香港・台湾・上海・沖縄などから移り住んだグループで、山陰・山陽は朝鮮半島からのグループとなりますかね。
邪馬台国は卑弥呼で、その跡目は壱与という人物だったそうです。これが後に四国を任されたとすれば、伊予の国という飛躍(笑;)だっぴー。ただ卑弥呼も、奈良や伊勢では無くて愛媛だった可能性も無くも無い。
まぁ与太話は置いといて
調べていると熊本説や日向説や葦岳山が邪馬台国だという説とか普通にあるのですが、そのすべてが謎のままですが、古代史の痕跡が山中の至る所、古墳が全国の至る所に残っていますから、どれも否定は出来ないですけどね~。
そう考えるとこの全域で主従関係のような繋がりがあったに違いありませんから・・
これらどうにも解明できていないというのか、国内ではタブー視さえされているという感じも受けていまして、その理由は古代からの天皇家支配に関わりがありそうに思ったり
激しい戦闘に巻き込まれて何もかもが破壊されたと考えると、無数の軍艦、軍隊も必要でしょうし、中国の戦国時代しか思い浮かばないな分けでして
何も確証はないけど、武田信玄の馬印の風林火山って、古代、最強だった勢力圏を記したものではないかと思ってみたのですわ(汗;)。
風は、伊予の国の瀬戸内海側の島々で豪族河野氏の風早の地。神風は伊勢。
林は、風が吹くと、一緒にざわめきはじめるのは、山陽と山陰や四国です。
火というと、やはり阿蘇や鹿児島のある九州エリアですよね。
山は、邪馬・・、大和朝廷のあった奈良盆地あたりとなります。
孫子の兵法にあるのですが、難知如陰。
・・大和平野の周辺には伊賀や甲賀がありますし、古代、瀬戸の海賊衆もその類ではないかと
日本書紀や古事記に出てくる逸話では、神武天皇の父が攻め入った際は矢に当たり敗れているが、再び神武天皇が攻め入った際には、多勢の協力国を引き連れ(瀬戸内勢力)、戦勝しているとのことですから
兵法をまとめた孫武の子孫か、倭国担当の戦国武将の中のリーダーかが、この神武天皇の正体なのではないかと考えてみてるのですけどね。大陸文化の影響で、古墳や運河が築かれ時代は急速に進化して行くのだと思う分けです。
それから古・今・東・西ってのも、邪馬台国に纏わる分け方かなって思うんです。風林火山の順で並べ代えると、東西古今ってなりますけど、今は、朝廷のある奈良京都で、古は、火の国、九州ですよね。著名な地名がダブってたりしてませんでょうか? 東は、四国、西は中国地域。
信じる信じないはあなた次第っすけどね\((爆;))/
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瀬戸内海を中心に考えた古代西日本の支配圏の移り変わりから、邪馬台国は何処か、倭(ヤマト)王権へどう繋がっていったのかを推測してみた。
春秋(BC770 - BC403) 時代までには、貿易もあり船舶での行き来もあったのではないか、戦国(BC403 - BC221)~三国(BC220-BC280)時代に強襲され、邪馬台国は壊滅し、その頃に倭(ヤマト)王権へと移り変わって行くのではないかと・・
それがいわゆる逸話の神武東征ではないかと疑ってみてる。
それ以前、瀬戸内海を取り巻く環境は、それぞれの小国家があった事は史跡などで分かりつつありまして、勢力争いや狩り/漁場争いなどで小競り合いを続けたりしつつも、そのうち貿易的な繋がりも行われるようになっていったものと思いますけど
たぶん最終氷期の真只中で、日本に渡ってきた猿人を祖先に持つグループと、中国や朝鮮半島から、様々な理由で、はみ出してきた神々と呼ばれるグループが存在してますよね~。
前回も少しかじってますが、その頃、下関に運河が造られたのではないかと思うのです。天津の運河の話ししてますけどね。その後なので大それた知恵もあった分けだわ。
最初は船が擦れ違うくらいの小さなものだったのだと思うけど、数百年で海流に侵食され続け今のサイズになったのだろうかと・・
神武東征が日向の国からと云われているので、その頃はまだ関門海峡は無かったんだろうと、単に思っただけなのですが・・
大雑把に分けると、九州勢は香港・台湾・上海・沖縄などから移り住んだグループで、山陰・山陽は朝鮮半島からのグループとなりますかね。
邪馬台国は卑弥呼で、その跡目は壱与という人物だったそうです。これが後に四国を任されたとすれば、伊予の国という飛躍(笑;)だっぴー。ただ卑弥呼も、奈良や伊勢では無くて愛媛だった可能性も無くも無い。
まぁ与太話は置いといて
調べていると熊本説や日向説や葦岳山が邪馬台国だという説とか普通にあるのですが、そのすべてが謎のままですが、古代史の痕跡が山中の至る所、古墳が全国の至る所に残っていますから、どれも否定は出来ないですけどね~。
そう考えるとこの全域で主従関係のような繋がりがあったに違いありませんから・・
これらどうにも解明できていないというのか、国内ではタブー視さえされているという感じも受けていまして、その理由は古代からの天皇家支配に関わりがありそうに思ったり
激しい戦闘に巻き込まれて何もかもが破壊されたと考えると、無数の軍艦、軍隊も必要でしょうし、中国の戦国時代しか思い浮かばないな分けでして
何も確証はないけど、武田信玄の馬印の風林火山って、古代、最強だった勢力圏を記したものではないかと思ってみたのですわ(汗;)。
風は、伊予の国の瀬戸内海側の島々で豪族河野氏の風早の地。神風は伊勢。
林は、風が吹くと、一緒にざわめきはじめるのは、山陽と山陰や四国です。
火というと、やはり阿蘇や鹿児島のある九州エリアですよね。
山は、邪馬・・、大和朝廷のあった奈良盆地あたりとなります。
孫子の兵法にあるのですが、難知如陰。
・・大和平野の周辺には伊賀や甲賀がありますし、古代、瀬戸の海賊衆もその類ではないかと
日本書紀や古事記に出てくる逸話では、神武天皇の父が攻め入った際は矢に当たり敗れているが、再び神武天皇が攻め入った際には、多勢の協力国を引き連れ(瀬戸内勢力)、戦勝しているとのことですから
兵法をまとめた孫武の子孫か、倭国担当の戦国武将の中のリーダーかが、この神武天皇の正体なのではないかと考えてみてるのですけどね。大陸文化の影響で、古墳や運河が築かれ時代は急速に進化して行くのだと思う分けです。
それから古・今・東・西ってのも、邪馬台国に纏わる分け方かなって思うんです。風林火山の順で並べ代えると、東西古今ってなりますけど、今は、朝廷のある奈良京都で、古は、火の国、九州ですよね。著名な地名がダブってたりしてませんでょうか? 東は、四国、西は中国地域。
信じる信じないはあなた次第っすけどね\((爆;))/