だいぶ霧も晴れてきてるので、ここらで仕切り直しです。
と云うことでマダマダ探索中なのですが、未だ触れないという土器・・
丸底は、縄文早期(1万年~6000年前)という事らしい。
これ ↓ シロート目にもそうは見えないです~。
![櫛珠土器のレプリカ発見.jpg]()
仕上げ塗りか上塗りかの殆どは剥げてしまっているのかな? 釉薬? の垂れもあるようだし、それほど綺麗には見えてませんが、褐色はベンガラですかね。? を塗り重ねているような感じで、更に二枚貝の成長線のようなきめ細かな櫛文が施されている。
そしてトドメは、口が開いていないように見えている部分。赤土粘土、ヘラで均され面取りまで施され、ロクロで廻したか、型にはめて作ったかのようなギョクというに相応しい小型成形
※ちなみに面取り、面切り加工は、柱や家具の角の加工法のひとつで、607年に建造された法隆寺(推古天皇と聖徳太子が建立した寺院)の柱にみられるのが国内最古らしい。
![櫛珠土器のレプリカ発見(丸底).jpg]()
第一印象は、その色から、昭和のタコツボ(未使用品)という感じだったけど、丸い底から土器? そして劣化をまったく感じさせないフォルム、レプリカかな? って事に。凛々しい容姿かたち。
https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-06-18
↑ 先日の厚型式の縄文土器の破片も、外側のアール面は、七輪(しちりん)と間違えるほど、不陸の無さそうな正確な円弧だったので、このあたりで組織的にがん作とかの取り扱いがあったのかなぁ~という印象も無くもなくて、疑問はまだ消えていないのですが
土師器、須恵器の時代の復元品でなければ、江戸時代か、明治時代かのレプリカなんでしょうかね ? 或は、古い瓦やナイロン、瓶なども近くに埋ってるようなので、農道作成か宅地造成時に、既に発見されていて、本物とすり替えられているのかなって思えてる。
古代の中国や朝鮮半島で作られたものならば、レベルは段違いなはずですので、ホンモノの櫛目文土器かもという期待は無くもないのですが、それだと、ほれ、遣隋使や遣唐使もやや昔の事ですし(永住組みや密偵も居たのかも)、大宰府もあった頃なら、直便はなくても、リレーする商船はその後も行きかってたんだろうから
結局、また!! 倭寇の話のほうへ行ってしまうと、何かと不都合も(爆;)~
平安時代に豊後水道で海賊してたのは、宇和海の日振に陣を置く藤原純友という事でしたけど、門司も近いし、国東半島、宇佐にも近いし、大陸へ行きかう外国船を狙うには、最も硬いエリアで、「東風吹かば、匂いおこせよ、梅の花・・」的に、政治的背景は強そうだけどね。金比羅の「行きはよいよい帰りは怖い」なんて唄もあるぐらい~
彼は、藤原北家で、道真公の作った大宰府に親子二代で勤めていたという経緯があるらしい。元々は海賊を抑制する任に就いていたのだとか、いつの間か、ミイラ取りがミイラに~?
ここは、周防国と伊予の国の板ばさみの島ですから当時どうやって治安を維持してたのかなど分からない事が多い。飛鳥・奈良・平安期には、国府や国司、郡司も置かれていたはずですし、鎌倉・室町期には守護や地頭も置かれていたはず。
純友が乱に至るまでの間は、全盛期、瀬戸内海全域へ勢力圏が広まってたらしいので、逃げ延びた従属たちも少なくない筈なのですが、うちも同じ家紋だし祖父以前の先祖がこの地で何をしていたのかが全く分からないんですよね~(笑;)。ご近所も同様だと思う(爆;)。そしてこの地区だけに限って歴史資料・史跡情報が少な過ぎてるのはなぜか?
木を隠すには森の中っても言うし~(汗;)ね。この地に辿り着いて隠れていても、隠していても、何の不思議も無いのだけど、古三津には乳母がいて、彼の墓石まであるとかないとか、このあたりで伊予の国勤めの橘氏に捕らえられて獄中死しているという話もあるけどね。どうかな?!
そのイキサツは、また改めて考えるとして、話戻しますが・・
ホンモノならば、口は小さくて別に蓋もあり、骨壺でなければ、釣り針とかを仕舞う為に使っていた容器だって考えてみると、ちょうど良い大きさなのかも。ってか、戦前、皇室でも探していたとすると、特務とかで、ホンモノと置き換えられてるという説も・・
直ぐ横からは、サザエの殻が何個か出てきていまして、それはリンゴの芯だけが残る感じになっていて、かなり老朽化してそうなのですが、1万年前のものかどうかは不明としか言いようがない。炭素年代測定法とかでないと年代までは分かりそうもないですよね~\(-o-;)/。
このあたりが、個人の限界集落っす。聞くと、地権者の協力も得られていないようで難色を示された。
□ 文化庁の関連ページ
ttp://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/maizo.html
後は、テレビ局を頼るか、考古館か、文科省か・・
市にはお知らせだけは済ませているのですが、発掘調査をするという話にまでは至っていなくて
https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-06-18
櫛玉に引っ掛りまして、↑ 一昨日の件ですけど、話を膨らませついでに・・
ニギヤハヒ本人か、の妻、瀬織津姫の墳墓か~
浪速って聞いてるけど、長髄彦(ナガスネヒコ)が眠っているとか~
神話の神武天皇とニギヤハヒがこの地域だとすると、この山、自体が古墳の可能性もあるという分けでして~。何年か前に出土の、今、行方不明の石群
盛り過ぎかー\(笑;)/
じゃこういうのはどうでしょう。
島の北端に歌崎というのがありまして、斎灘(いつきなだ)に面していますが、瀬戸を行き交う船々には、潮待ち・風待ちというのがあり、当時はまだヨット的には進み難くかったはずで、追い風、追い潮に乗るのが常套だろうと・・
正式な斎宮制度(7~14世紀まで続いた)成立以降の斎宮も少なからずの人数で、起源はというと、やはり古事記や日本書紀の神話ということで、以前からあるにはあった事だという認識。震源的な災いの種 男女の仲にありですか、采女伝説、斎宮女御なんだね。余談ですが、そのリストにある名は、良い運命で人生を過せないという噂さもある。勤めに恵まれないとか、結婚できないとか、別れ易いとか、不幸を背負う星の名なんだろうか~。
古墳~平安期の頃に作らせた幣物の復元品(レプリカ)だとすると、原型を留めている理由にも思い当たる。
歌崎の由来は、今治方面20kmほどのところにある斎島という事でしたが、「斎内親王から幣物料を下賜した(配流記念の土産)」のが、その斎島で、潮待ちをしたのが、こちらの島だとすると、西から蝦夷に向かっていたと考えられるのですが?
或は斎灘の島々はすべて斎島だった頃の話か、まぁ分からないのだけど、その途中で墳墓に御参りをして御供をしたとも、今だ 小野小町 が立ち寄り歌を読んだ という発想には繋がらないまま・・
やっぱ 盛り過ぎかー\(笑;)/
PS :
一昨日の透かしの引き両の瓦と一緒に出てきているので、守護や地頭の家宝として置かれていたものと云う説なんかも検討している最中。
邪馬台国の支配下より、支配権が変わっても、島要衝は継続して置かれていたと推測するべきかなぁっても思うのですが、瀬戸内海なので、忽那文書とかが最古と言うことなので・・
でも神器とかは既に島内の古墳から発見されてまして、東京国立博物館に寄託されてる様子。
と云うことでマダマダ探索中なのですが、未だ触れないという土器・・
丸底は、縄文早期(1万年~6000年前)という事らしい。
これ ↓ シロート目にもそうは見えないです~。

仕上げ塗りか上塗りかの殆どは剥げてしまっているのかな? 釉薬? の垂れもあるようだし、それほど綺麗には見えてませんが、褐色はベンガラですかね。? を塗り重ねているような感じで、更に二枚貝の成長線のようなきめ細かな櫛文が施されている。
そしてトドメは、口が開いていないように見えている部分。赤土粘土、ヘラで均され面取りまで施され、ロクロで廻したか、型にはめて作ったかのようなギョクというに相応しい小型成形
※ちなみに面取り、面切り加工は、柱や家具の角の加工法のひとつで、607年に建造された法隆寺(推古天皇と聖徳太子が建立した寺院)の柱にみられるのが国内最古らしい。
.jpg)
第一印象は、その色から、昭和のタコツボ(未使用品)という感じだったけど、丸い底から土器? そして劣化をまったく感じさせないフォルム、レプリカかな? って事に。凛々しい容姿かたち。
https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-06-18
↑ 先日の厚型式の縄文土器の破片も、外側のアール面は、七輪(しちりん)と間違えるほど、不陸の無さそうな正確な円弧だったので、このあたりで組織的にがん作とかの取り扱いがあったのかなぁ~という印象も無くもなくて、疑問はまだ消えていないのですが
土師器、須恵器の時代の復元品でなければ、江戸時代か、明治時代かのレプリカなんでしょうかね ? 或は、古い瓦やナイロン、瓶なども近くに埋ってるようなので、農道作成か宅地造成時に、既に発見されていて、本物とすり替えられているのかなって思えてる。
古代の中国や朝鮮半島で作られたものならば、レベルは段違いなはずですので、ホンモノの櫛目文土器かもという期待は無くもないのですが、それだと、ほれ、遣隋使や遣唐使もやや昔の事ですし(永住組みや密偵も居たのかも)、大宰府もあった頃なら、直便はなくても、リレーする商船はその後も行きかってたんだろうから
結局、また!! 倭寇の話のほうへ行ってしまうと、何かと不都合も(爆;)~
平安時代に豊後水道で海賊してたのは、宇和海の日振に陣を置く藤原純友という事でしたけど、門司も近いし、国東半島、宇佐にも近いし、大陸へ行きかう外国船を狙うには、最も硬いエリアで、「東風吹かば、匂いおこせよ、梅の花・・」的に、政治的背景は強そうだけどね。金比羅の「行きはよいよい帰りは怖い」なんて唄もあるぐらい~
彼は、藤原北家で、道真公の作った大宰府に親子二代で勤めていたという経緯があるらしい。元々は海賊を抑制する任に就いていたのだとか、いつの間か、ミイラ取りがミイラに~?
ここは、周防国と伊予の国の板ばさみの島ですから当時どうやって治安を維持してたのかなど分からない事が多い。飛鳥・奈良・平安期には、国府や国司、郡司も置かれていたはずですし、鎌倉・室町期には守護や地頭も置かれていたはず。
純友が乱に至るまでの間は、全盛期、瀬戸内海全域へ勢力圏が広まってたらしいので、逃げ延びた従属たちも少なくない筈なのですが、うちも同じ家紋だし祖父以前の先祖がこの地で何をしていたのかが全く分からないんですよね~(笑;)。ご近所も同様だと思う(爆;)。そしてこの地区だけに限って歴史資料・史跡情報が少な過ぎてるのはなぜか?
木を隠すには森の中っても言うし~(汗;)ね。この地に辿り着いて隠れていても、隠していても、何の不思議も無いのだけど、古三津には乳母がいて、彼の墓石まであるとかないとか、このあたりで伊予の国勤めの橘氏に捕らえられて獄中死しているという話もあるけどね。どうかな?!
そのイキサツは、また改めて考えるとして、話戻しますが・・
ホンモノならば、口は小さくて別に蓋もあり、骨壺でなければ、釣り針とかを仕舞う為に使っていた容器だって考えてみると、ちょうど良い大きさなのかも。ってか、戦前、皇室でも探していたとすると、特務とかで、ホンモノと置き換えられてるという説も・・
直ぐ横からは、サザエの殻が何個か出てきていまして、それはリンゴの芯だけが残る感じになっていて、かなり老朽化してそうなのですが、1万年前のものかどうかは不明としか言いようがない。炭素年代測定法とかでないと年代までは分かりそうもないですよね~\(-o-;)/。
このあたりが、個人の限界集落っす。聞くと、地権者の協力も得られていないようで難色を示された。
□ 文化庁の関連ページ
ttp://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/maizo.html
後は、テレビ局を頼るか、考古館か、文科省か・・
市にはお知らせだけは済ませているのですが、発掘調査をするという話にまでは至っていなくて
https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-06-18
櫛玉に引っ掛りまして、↑ 一昨日の件ですけど、話を膨らませついでに・・
ニギヤハヒ本人か、の妻、瀬織津姫の墳墓か~
浪速って聞いてるけど、長髄彦(ナガスネヒコ)が眠っているとか~
神話の神武天皇とニギヤハヒがこの地域だとすると、この山、自体が古墳の可能性もあるという分けでして~。何年か前に出土の、今、行方不明の石群
盛り過ぎかー\(笑;)/
じゃこういうのはどうでしょう。
島の北端に歌崎というのがありまして、斎灘(いつきなだ)に面していますが、瀬戸を行き交う船々には、潮待ち・風待ちというのがあり、当時はまだヨット的には進み難くかったはずで、追い風、追い潮に乗るのが常套だろうと・・
正式な斎宮制度(7~14世紀まで続いた)成立以降の斎宮も少なからずの人数で、起源はというと、やはり古事記や日本書紀の神話ということで、以前からあるにはあった事だという認識。震源的な災いの種 男女の仲にありですか、采女伝説、斎宮女御なんだね。余談ですが、そのリストにある名は、良い運命で人生を過せないという噂さもある。勤めに恵まれないとか、結婚できないとか、別れ易いとか、不幸を背負う星の名なんだろうか~。
古墳~平安期の頃に作らせた幣物の復元品(レプリカ)だとすると、原型を留めている理由にも思い当たる。
歌崎の由来は、今治方面20kmほどのところにある斎島という事でしたが、「斎内親王から幣物料を下賜した(配流記念の土産)」のが、その斎島で、潮待ちをしたのが、こちらの島だとすると、西から蝦夷に向かっていたと考えられるのですが?
或は斎灘の島々はすべて斎島だった頃の話か、まぁ分からないのだけど、その途中で墳墓に御参りをして御供をしたとも、今だ 小野小町 が立ち寄り歌を読んだ という発想には繋がらないまま・・
やっぱ 盛り過ぎかー\(笑;)/
PS :
一昨日の透かしの引き両の瓦と一緒に出てきているので、守護や地頭の家宝として置かれていたものと云う説なんかも検討している最中。
邪馬台国の支配下より、支配権が変わっても、島要衝は継続して置かれていたと推測するべきかなぁっても思うのですが、瀬戸内海なので、忽那文書とかが最古と言うことなので・・
でも神器とかは既に島内の古墳から発見されてまして、東京国立博物館に寄託されてる様子。