関東はすっかり梅雨らしいけど、四国もそろそろ梅雨入り宣言ですかね~
昨夜は不意に降られてしまって、風も強かったようで、ペットボトルはあちこちに散乱してるわ、やっと出来たアロエベラの実(種)も、おこってしまってるわ~(泣;)。
朝、庭が大騒動でした(汗;)。
という分けで、このコーナーでやってる古代遺跡かな? ですけど、畑にも行ってみると・・
![透かし瓦 出土.JPG]()
例の土管と見られる素焼の土器らしきですが・・
横から瓦みたいのが出てきてた。丸に2つか2つの引両紋 透かし瓦ですかね?
※2つだと鎌倉~室町時代の源氏~足利将軍家の家紋ですよね~。3つだと伊達家の伊予の国の庶流家あたりかな?
もっとずーっと後の世の 藤堂高虎 絡みかな?
ttp://www.ritoumeguri.com/experience/26428.php
↑ 参照ページです。
道真との関わりは平安時代なので、忽那義範氏、どうなんだろう!! もしかして史実に添う発見?矛盾?。南北朝時代の幕府の陣屋説遠からず、未発見の山城の砦なのかも。参照ページによると城郭とあるけど、かなり古そうな野面積みが、少し登ったところに数メートル残っている事とも一致する。近所の五輪塔や祠は、北朝方の? 源氏?の・・
※姫ヶ浜にある鎧賭松の話は有名で、屋島の合戦と壇ノ浦合戦の間に、この地を 源義経 一行は通過している。話ほどは、穏やか悠長ではなかったということかな ?
貝殻も増えてます。そして薄い小さい破片ですが、これは焦げ跡も付いていて弥生土器のものではないかとの推測。
・・何か見たことないものばかりで全容も分からないし、「みたいな」とか、「のような」とか多くて、呼び名も付けられないですね~実際(笑:)。
中国や朝鮮半島の文化が、大阪や奈良、京都より速く伝わっていたのではないかと思ったりもしてまして、邪馬台国ですよね~。「国内最古」のとかってなると人目も引くのよね。
あっ!!
今、話題の仁徳天皇陵とされている、百舌鳥の最大古墳群ですが、百済王のものではないかと思いついてます。軍を引き連れて倭に逃げ延びてたとすると門司~瀬戸内海ときて→ 大阪湾ですからね~。
淮陰侯列伝の一説に、"敗軍の将は以って勇を言うべからず、亡国の太夫は以って存を図るべからず" ってのがあるらしいけど、これらも「敗軍の将、兵を語らず」・・遺言的事なんだろうかね~。
まぁでも屋島の合戦以前は、瀬戸内海の勢力は圧倒的に平氏側有利だったと思うんですけど、この忽那諸島内も完全に、南vs北で2分していたらしいし、・・決め付けるにはまだまだ情報が足りない。
崖面の壺らしき(まだ全容は見えてませんが、上下が不明で、口が開いていない様子)は櫛模様から、縄文土器ではないかとの予測できました。地区の道作り組合の方々が掘り出した石群は、既に当初の半分以上行方不明みたいですけど、古墳時代の古墳とも酷似しているし、竪穴式住居跡の痕跡なのかも
釉薬も3重にも4重にも塗り重ねられているような感じで、まだしっかりと下塗りの色が残っている様子が伺えてるから、成分分析も可能そうで、かなり珍しいとは思えてます。
余談ですけど、瀬戸内海(忽那諸島)の海賊の馬印のひとつが、「六つ鐡」という事でしたけど、やっぱ陸地より耐久性が強くないと脆くて直ぐに錆びたり朽ちたりは日常茶飯事なので、土器にしろ、鉄器にしろ、そのひとつひとつが長い年月をかけて鍛えられしワザモノだったことが伺えてる。
そして畑の奥の方の崖面でも・・
![縄文遺跡かな.JPG]()
何か土器らしきが埋まっているのを新発見です。以前から時々出ていた汽水域の2枚貝もそこそこも出てきている様子。
そろそろ貝塚との証拠も欲しいところなのですが、予算も、経験も、知識にも乏しいといった現状で、指をくわえたまま足踏み続きそう・・
・・水路に詰まっても困るので、もっか落ちてきた貝殻と瓦の破片を集めてるといった状況。
歴史的な何か重要な発見になるのならば発掘調査も可能なのでしょうけど、何か反応待ちなのかな?!
土地の管理者の権利境界とか、地区の道作り組合とか、田舎なので意外とめんどくさい事もあるのかも知れないですね(汗;)。当時の忽那氏は南朝方ということなので、この城郭造りには借り出されたのではないかと思う。
PS : 7日 23時頃の事。
山の上ほうには生息があるとは聞いてたけど、生まれてはじめて庭で 蛍 みた。サッシ窓に貼り付いて光ってたので、デジカメで撮ろうとしたら、ヤモリに食べられたー\(爆;)/。 特に小さいという感じは無かったけど ヒメボタル かな?
昨夜は不意に降られてしまって、風も強かったようで、ペットボトルはあちこちに散乱してるわ、やっと出来たアロエベラの実(種)も、おこってしまってるわ~(泣;)。
朝、庭が大騒動でした(汗;)。
という分けで、このコーナーでやってる古代遺跡かな? ですけど、畑にも行ってみると・・
例の土管と見られる素焼の土器らしきですが・・
横から瓦みたいのが出てきてた。丸に2つか2つの引両紋 透かし瓦ですかね?
※2つだと鎌倉~室町時代の源氏~足利将軍家の家紋ですよね~。3つだと伊達家の伊予の国の庶流家あたりかな?
もっとずーっと後の世の 藤堂高虎 絡みかな?
ttp://www.ritoumeguri.com/experience/26428.php
↑ 参照ページです。
道真との関わりは平安時代なので、忽那義範氏、どうなんだろう!! もしかして史実に添う発見?矛盾?。南北朝時代の幕府の陣屋説遠からず、未発見の山城の砦なのかも。参照ページによると城郭とあるけど、かなり古そうな野面積みが、少し登ったところに数メートル残っている事とも一致する。近所の五輪塔や祠は、北朝方の? 源氏?の・・
※姫ヶ浜にある鎧賭松の話は有名で、屋島の合戦と壇ノ浦合戦の間に、この地を 源義経 一行は通過している。話ほどは、穏やか悠長ではなかったということかな ?
貝殻も増えてます。そして薄い小さい破片ですが、これは焦げ跡も付いていて弥生土器のものではないかとの推測。
・・何か見たことないものばかりで全容も分からないし、「みたいな」とか、「のような」とか多くて、呼び名も付けられないですね~実際(笑:)。
中国や朝鮮半島の文化が、大阪や奈良、京都より速く伝わっていたのではないかと思ったりもしてまして、邪馬台国ですよね~。「国内最古」のとかってなると人目も引くのよね。
あっ!!
今、話題の仁徳天皇陵とされている、百舌鳥の最大古墳群ですが、百済王のものではないかと思いついてます。軍を引き連れて倭に逃げ延びてたとすると門司~瀬戸内海ときて→ 大阪湾ですからね~。
淮陰侯列伝の一説に、"敗軍の将は以って勇を言うべからず、亡国の太夫は以って存を図るべからず" ってのがあるらしいけど、これらも「敗軍の将、兵を語らず」・・遺言的事なんだろうかね~。
まぁでも屋島の合戦以前は、瀬戸内海の勢力は圧倒的に平氏側有利だったと思うんですけど、この忽那諸島内も完全に、南vs北で2分していたらしいし、・・決め付けるにはまだまだ情報が足りない。
崖面の壺らしき(まだ全容は見えてませんが、上下が不明で、口が開いていない様子)は櫛模様から、縄文土器ではないかとの予測できました。地区の道作り組合の方々が掘り出した石群は、既に当初の半分以上行方不明みたいですけど、古墳時代の古墳とも酷似しているし、竪穴式住居跡の痕跡なのかも
釉薬も3重にも4重にも塗り重ねられているような感じで、まだしっかりと下塗りの色が残っている様子が伺えてるから、成分分析も可能そうで、かなり珍しいとは思えてます。
余談ですけど、瀬戸内海(忽那諸島)の海賊の馬印のひとつが、「六つ鐡」という事でしたけど、やっぱ陸地より耐久性が強くないと脆くて直ぐに錆びたり朽ちたりは日常茶飯事なので、土器にしろ、鉄器にしろ、そのひとつひとつが長い年月をかけて鍛えられしワザモノだったことが伺えてる。
そして畑の奥の方の崖面でも・・
何か土器らしきが埋まっているのを新発見です。以前から時々出ていた汽水域の2枚貝もそこそこも出てきている様子。
そろそろ貝塚との証拠も欲しいところなのですが、予算も、経験も、知識にも乏しいといった現状で、指をくわえたまま足踏み続きそう・・
・・水路に詰まっても困るので、もっか落ちてきた貝殻と瓦の破片を集めてるといった状況。
歴史的な何か重要な発見になるのならば発掘調査も可能なのでしょうけど、何か反応待ちなのかな?!
土地の管理者の権利境界とか、地区の道作り組合とか、田舎なので意外とめんどくさい事もあるのかも知れないですね(汗;)。当時の忽那氏は南朝方ということなので、この城郭造りには借り出されたのではないかと思う。
PS : 7日 23時頃の事。
山の上ほうには生息があるとは聞いてたけど、生まれてはじめて庭で 蛍 みた。サッシ窓に貼り付いて光ってたので、デジカメで撮ろうとしたら、ヤモリに食べられたー\(爆;)/。 特に小さいという感じは無かったけど ヒメボタル かな?