続き
で、そもそも数年前に数枚の汽水域の貝殻が崖面に露出していた事から始まったことでしたけど・・
https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-04-13
土器らしき壺に関しては、まだはっきりしていませんで、レプリカだとしても土の中から出てきたものだから、経緯を調べないといけないとは思っていたのですが、炭素年代測定に関しても、個人からの依頼は受けていないという事で、安くないのだろうね。
汚職とか関わってるとかね、ついついそっち方向で考えてしまうけどね~。
なので公的機関としか関わっていないのが現実みたいだから、金銭次第で、年代のすり合わせとかもできちゃうのかな~。
![磨製石器時代の砥石.JPG]()
地区の道作り管理組合というのがあって、たぶんそこが管理しているのだと思うけど、以前の石群に関しても進展がなくて、今もそのままの状態なんですょー。
![石器時代の砥石.JPG]()
それ改めてじっくり観察していたのですが、花崗岩や安山岩か石灰岩が多そうな中、何個か種類が違う古そうな石もあり、風化の仕方、砕け方や不自然な傷や角の削れ方から、旧石器~磨製石器時代から使われてる砥石とかではないかと思いついてまして。古代集落においてあったものですよね、きっと。それがいつのまにやら副葬品にみたいな
https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2013-02-05
時代が異なるものが一緒に混同しているという感じもしているので、何世代ものあいだ、古代人の生活の場がそこにあったようにも思えたり
具体的には
2枚貝が汽水期のものだとすると、それは氷河期ですから、崖面には横穴式の住居もあったとの予測も出来なくもないし、土器らしきは、円底でクシ目文様があり、泥釉が施されている感じからして、~弥生期の木の実などを保管していた壺か、打楽器か副葬品かだとすると、水位も今と然程変わらないから、サザエの殻と一緒に出て来ても不思議ではないとも思うのですが、磨製石器であれば竪穴式住居戸跡か古墳ではないかとの予測も
まぁ、重信川河口を思い出すと、この島でも、面積も高さもそこそこあった時代だから、汽水貝が生息できるスペースはないとは言いきれないです。
また
周辺に小さな祠が沢山あるのは、源平の合戦による平家の落人(へいけのおちうど)だと高齢者からは聞いてるけど、それだとやや辻褄がね?。確証がないのが確証かもしれませんが、土製管や土師器みたいなものも、その方々の持ち物か、追われいる身の上で応急的に作ったものの可能性も否定はできていないのだけど
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E3%81%AE%E8%90%BD%E4%BA%BA
wik参照
もっとも、貝塚の下には良くあるらしいですから、古代の人骨とかが出土してたとの推測も無くはないので、まだ何とも
貝殻の破片は時々出てきてても、過去にある程度処理されているとすると、貝塚は見つからない事もうなずける分けでして~。
![百済の土製管.JPG]()
本日も一昨日の雨で2枚出てたよ。たぶん土製管ではないかということですが、だとすると
ttps://4travel.jp/travelogue/10828538
↑ こちらに貼り付けられているものと似ている感じなので、そうだとすると半島(百済)から持ち込まれたものって事になるのかね? 京に向かう途中で海賊に襲われて遭難したとかだよね。
国内は、明日香村の飛鳥寺跡から出土した最古の水道管が唯一の例みたいだから史実が変わる? おそれも
全体像を見ない事には、これ以上は進みようもないのですが
で、この地域のお話に戻りますが・・
源平の合戦や南北朝時代や戦国期がメインなのですが、忽那水軍の島である以前に、平家の隠れ里になっていた地区もあるのかも知れないよね。
忽那っていうのは島々が骨をちりばめた様子に似てた事から、8世紀以前に「骨奈」とつけられた名称だと記されているってあったけど、戦の時代を知らない者にとっては、そんな風にはまったく見えない絶景ですし、古代人の人骨や動物の化石でもが、あちこちで発見されていた時代もあるのかなぁ~とは思えてたのよね~
この地で、水軍最強時代を一代で築いた忽那義範さんは、藤原道真さんのひ孫らしいわ。大宰府を拠点に、瀬戸内海の海上交通を支配しいつか京へ返り咲こうとしていた感あるわ。
ネットで調べているうちに、三津の近くにある忽那山というのを発見した。伊予の国最大勢力の河野氏と支従関係があった頃の陸側の警備拠点なのかもしれません。
続きはまたいつか
で、そもそも数年前に数枚の汽水域の貝殻が崖面に露出していた事から始まったことでしたけど・・
https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-04-13
土器らしき壺に関しては、まだはっきりしていませんで、レプリカだとしても土の中から出てきたものだから、経緯を調べないといけないとは思っていたのですが、炭素年代測定に関しても、個人からの依頼は受けていないという事で、安くないのだろうね。
汚職とか関わってるとかね、ついついそっち方向で考えてしまうけどね~。
なので公的機関としか関わっていないのが現実みたいだから、金銭次第で、年代のすり合わせとかもできちゃうのかな~。
地区の道作り管理組合というのがあって、たぶんそこが管理しているのだと思うけど、以前の石群に関しても進展がなくて、今もそのままの状態なんですょー。
それ改めてじっくり観察していたのですが、花崗岩や安山岩か石灰岩が多そうな中、何個か種類が違う古そうな石もあり、風化の仕方、砕け方や不自然な傷や角の削れ方から、旧石器~磨製石器時代から使われてる砥石とかではないかと思いついてまして。古代集落においてあったものですよね、きっと。それがいつのまにやら副葬品にみたいな
https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2013-02-05
時代が異なるものが一緒に混同しているという感じもしているので、何世代ものあいだ、古代人の生活の場がそこにあったようにも思えたり
具体的には
2枚貝が汽水期のものだとすると、それは氷河期ですから、崖面には横穴式の住居もあったとの予測も出来なくもないし、土器らしきは、円底でクシ目文様があり、泥釉が施されている感じからして、~弥生期の木の実などを保管していた壺か、打楽器か副葬品かだとすると、水位も今と然程変わらないから、サザエの殻と一緒に出て来ても不思議ではないとも思うのですが、磨製石器であれば竪穴式住居戸跡か古墳ではないかとの予測も
まぁ、重信川河口を思い出すと、この島でも、面積も高さもそこそこあった時代だから、汽水貝が生息できるスペースはないとは言いきれないです。
また
周辺に小さな祠が沢山あるのは、源平の合戦による平家の落人(へいけのおちうど)だと高齢者からは聞いてるけど、それだとやや辻褄がね?。確証がないのが確証かもしれませんが、土製管や土師器みたいなものも、その方々の持ち物か、追われいる身の上で応急的に作ったものの可能性も否定はできていないのだけど
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E3%81%AE%E8%90%BD%E4%BA%BA
wik参照
もっとも、貝塚の下には良くあるらしいですから、古代の人骨とかが出土してたとの推測も無くはないので、まだ何とも
貝殻の破片は時々出てきてても、過去にある程度処理されているとすると、貝塚は見つからない事もうなずける分けでして~。
本日も一昨日の雨で2枚出てたよ。たぶん土製管ではないかということですが、だとすると
ttps://4travel.jp/travelogue/10828538
↑ こちらに貼り付けられているものと似ている感じなので、そうだとすると半島(百済)から持ち込まれたものって事になるのかね? 京に向かう途中で海賊に襲われて遭難したとかだよね。
国内は、明日香村の飛鳥寺跡から出土した最古の水道管が唯一の例みたいだから史実が変わる? おそれも
全体像を見ない事には、これ以上は進みようもないのですが
で、この地域のお話に戻りますが・・
源平の合戦や南北朝時代や戦国期がメインなのですが、忽那水軍の島である以前に、平家の隠れ里になっていた地区もあるのかも知れないよね。
忽那っていうのは島々が骨をちりばめた様子に似てた事から、8世紀以前に「骨奈」とつけられた名称だと記されているってあったけど、戦の時代を知らない者にとっては、そんな風にはまったく見えない絶景ですし、古代人の人骨や動物の化石でもが、あちこちで発見されていた時代もあるのかなぁ~とは思えてたのよね~
この地で、水軍最強時代を一代で築いた忽那義範さんは、藤原道真さんのひ孫らしいわ。大宰府を拠点に、瀬戸内海の海上交通を支配しいつか京へ返り咲こうとしていた感あるわ。
ネットで調べているうちに、三津の近くにある忽那山というのを発見した。伊予の国最大勢力の河野氏と支従関係があった頃の陸側の警備拠点なのかもしれません。
続きはまたいつか